「感情の力」とは・無意識に受けている印象の力

1960~70年代、学生運動やそのあたりに活躍(青春?)した人たちと話したり、著書を読んだりすると、よく突き詰めて考えているなあと思う。議論でぶつかり合うことに慣れていて、変な自意識のない存在感。中二病や幼稚なナルシズム、そういった現代の自意識とは無縁な感じがする。
  
そういった方々を畏怖する一方で、世代がだいぶ違うからか、アクが強いと感じなくもない。その世代にもし生まれたとしたら、私はあまり馴染めないのだろう。興味をもっては見るけれど、きっと受け入れることが出来ないと気付くに違いない。だから、その世代の方々の本を読んでも、共感できるということはあまりないのかもしれないと思っていた。
 
吉福伸逸さんという方が講演で語ったことを記した本を読んだ。最初は、また受け入れることが出来ない後味の悪さと共に、読み終わるのかもしれないと、ちょっと冷めた期待とともに本を開いた。
  

  
 

吉福 伸逸(よしふく しんいち、1943年 – 2013年4月29日)は、翻訳家、セラピスト。

岡山県倉敷市生まれ。早稲田大学文学部西洋史学科中退後、バークレー音楽院で学び、ジャズベーシストとして活動。1972年からカリフォルニア大学バークレー校でサンスクリット語、東洋思想を学ぶ。帰国後、翻訳者となり、C+Fコミュニケーションズ、C+F研究所を創設。スピリチュアル、ホーリズム、トランスパーソナル心理学などを紹介し人気を博す。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A6%8F%E4%BC%B8%E9%80%B8

 

親以上に歳の離れた人で、しかもだいぶユニークな経歴をもった人の本なので、そもそも全く共感出来ないことが書かれていても不思議ではない。でも意外だった。とても自分には理解できないけど、この人はすごい事を話している。そんな風に感じた。莫大な知性のうち、その断片しか自分には理解できない。それでもその断片には、非常にもっともなことが書かれていた。
     
著者はまず、人が自分を内側から動かす力は「思考・感情・存在」の3側面を持っていると定義する。その中で「思考」は感情の影響を受ける・感情を正当化するために働くとしている。
  

思考 は、 その 背景 に ある 情緒 や 情念 の 状態 に 強く 影響 さ れる ん です。 物事 を「 考える」 という とき には、 必ず その 背景 に 一種 の 情緒 や 情動 という もの が あっ て、 その 状態 に 強く 影響 さ れ ます。 (中略) つまり、 頭 の 中 で どんな ふう に 物事 を 考えたとしても、その 背景 に ある 情緒 や 情動 の 影響 を 受け ながら でしか 物事 は 考える こと が でき ない、 そういう よう な 単純なことなんですね。

  
  
そのことは、体験的にもよくわかる。論理を言っているように見えて、結局は「自分は正しい」という感情を後付けるために、無理やり論理を後づけること。苦手な人を嫌うための、証拠集め。そうした人の行動は、自分も他人も含めて嫌と言うほど目にする。結局、感情が先にあって、その手段として理屈をこねているのだ。そんな風に感じられることはよくある。
  

ではその論理の力の土台となる感情の力を自由闊達に発揮するにはどうするか。
 
感情の力とは。私たちはみなそれぞれ無意識に、その物事や状況から得ている印象(impression)がある。人の話を聞いていて、ふっと違うことを思いだしたり、デジャヴを感じることも、私たちが印象を受けていることを表す一端だという。感情の力とは、その無意識の印象が生み出すエネルギーだ。
そのユニークな印象を知覚する前に一般化された「言葉」に置き換えてしまうと、その情動を知覚しづらくなる。印象を「エネルギーに変える装置」を持っていなければ、情動を育てることはできない。
 
  

他 の 人 と 共通 で 見 て いる もの が すべて だ という 形 で 印象 を 受け止め て いる かぎり、 われわれ は 情動 に エネルギー を 与え ては い ない ん です。 だから それ は 決して 力 にはなり ませ ん。〝 感情 の 力〟 は、 いかに 自由自在 に 情動 を 感じ て 自由 に 表現 できる か です。 でき 得る かぎり 抑制 する こと なく、 心 が 自在 に 動い て 法 を 越え、 思う よう に 感情 を 動かす こと が できる か どう か。 だけど、 人 は 社会 に いる 以上 は 情動 を 抑制 し ない わけ には いき ませ ん。 情動 の 抑制 が 少なく 自由 なら、 しっかり と 腹 を 立てる こと も できれ ば、 しっかり と 悲しむ こと も できれ ば、 しっかり 人 を 苦しめる こと も できる。 その こと を 自分 で 気がつい て いる か どう かが 問題 と なっ て き ます。

 
  
子どもの頃は、知らないことが多かったからかもしれないが、自分がどういう風に物事を知覚したり、イメージを抱いているかをもっと知覚していた気がする。例えば街を歩く人波を見てなぜか「悲しい」気持ちを抱いたり、音楽を聞いて「怖い」と感じたり。知識が多くなるにつれて、そういう「印象」を自分が感じていることすら、非現実的だとして無かったことにしているのかもしれない。そういう気がしてきた。
 
「こうあるべき」とか「一般的にこうであろう」といったお仕着せの感情ではなく、自分の生の感情を感じること、そして、上の引用にある「動かす」ことが感情の力が発揮できているという事なのだろう。
この本にはまた、「エネルギーに変える装置」を幼少期に獲得した人は、印象を情動に変えることができると書かれている。その装置とは、一体何なのだろう。感情がパワーになるとは、アリストテレスの「パトス(共感)」のような話だろうか。そのあたりがどんな感覚や現象なのか、感情音痴の私には分からない。生きている間に分かればいいなと思うけれど、もしかしたら一生分からないままなのかもしれない。
  
次の記事では、「存在の力」について書きたいと思う。