私とは何か――「個人」から「分人」へ /平野啓一郎 感想

私は10歳くらいからどういう訳か、周囲の友達と気が合わなくなっていった。私もそう思っていたし、周囲もそう感じていたのだと思う。同じクラスになって最初の何回かは遊びに誘われるけど、そのうち入れてもらえなくなることもあった。
    
中学校でもほとんど友達はできなかった。まったく孤独だった訳ではないけど、あの年代独特の、いつも仲良しグループで一緒に過ごして、箸が転んでも楽しくて、時には葛藤もあって、という関係を私はついに持つことができなかった。
その頃の自分は、自分は周りと違っておかしな人間なのだと思っていた。そのことで自分に自信を持つことは無かったし、たとえ自分に興味をもってくれる友達ができても、緊張と不安とどうしたら良いか分からなさで、打ち解けることはできなかった。
  
高校や大学では、自分が何か変わった訳ではないけど、なぜか友達ができた。
でも10代前半の記憶のために、大人になった今でも私は、人格のどこかが欠損した人間なのだという自己認識を持っている。
 

     
  
「個人」の中に存在してよいいくつもの「分人」
人には「その人の真のキャラ」が存在するのではなくて、その時々、対面する人によって違ったキャラ(=分人)が存在して当然だと筆者は考える。誰とどういう関係で対面するかによって異なる分人には、相手や環境が影響する。Aさんと一緒にいる時の自分は「対Aさんの分人」が、Bさんといる時は「対Bさんの分人」と、一人の人が見せるキャラは相手によって違っていてもよいのだ。
 
だから、家族や仕事の同僚や友人が、違うコミュニティで自分の知らない表情を見せていても不義理に思ったりする必要はないし、自分が気にすべきことは、自分と対面している時にその人が見せる「分人」が楽しそうにしているかどうか、心地よいのか、ということだけでは、ということが書かれていた。
  
   
大人になった今でも人間関係を築くのは得意でない。言わなくてよいことを言って人を傷つけ、自己主張すべき時に自信が無くてできず、後から文句は言うし、不安に駆られて行動したり、人から承認されたくて面倒い奴だったりと、自分の至らなさは枚挙にいとまない。ある人は私は発達障害の特性を持っているというし、本などを読んでいると、愛着障害やアダルトチルドレンなど精神的な成長の機会を逃した大人の特徴にも当てはまっている気がしている。そんな生来の気質や生い立ちは置いておくとして、「分人」の考えから自分のことを捉えてみる。
    
①それぞれの「分人」が不要にごちゃまぜになっている
 (不用意に他の分人を模倣して失言。たとえば友人に言っていいことを仕事の同僚に言うのは変な時があるとか。逆に自己主張すべき時に過去の他の分人の経験がフラッシュバックして躊躇してしまう、など)
  
②一つの「分人」が人と上手くいかないと自分の人格否定に走ってしまう
(とある一人との人間関係がうまく行かないと、だから自分は駄目な人間なのだと否定に走ってしまう)
   
こう書いていると、仕事のマネジメントみたいに分人もマネジメントすればいい気がする。会社の仕事にある程度習熟してくると、上の①は他の案件や経験とやたらに混同せず、勘どころだけ応用することができるようになるし、②一つが上手く行かなくても、全部ダメな訳ではなくてリカバーできる部分もある。自分が至らなかった面もあるけど、自分だけが悪かった訳でない事も多い。もちろん、対人関係だからそんなにシステマチックに行くわけがないけれど。
    
きっと社会性や人間関係に長けている人は、それぞれの相手との関係にふさわしい分人を作り出すのも上手だろうし、色々な分人が自分を構成していることが分かっているから、自分を画一的に捉えないことにも長けているのかもしれない。
   
 
人格の「足場」としての分人
 
誰しも多かれ少なかれ、生きていたら人間関係でつまづくし、自分には存在価値がないように思えることもあると思う。そういう時に思い出したいのが「足場となる分人」という言葉だ。
 
 

「私たちは、足場となるような重要な分人を一時的に中心として、その他の分人の構成を整理することも出来る」
 
「学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまで、いじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習したり、自宅で両親と過ごしたりしている時には、快活で、楽しい自分 になれると感じるなら、その分人こそを足場 として、生きる道を考えるべきである。

平野啓一郎. 私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 
 
どんな事をしている時の自分が好きか、自分を否定したくなった時は思い出したい。そしてその時の自分を「会社や学校で上手くいってないくせに」などと否定せず、肯定的に見ること。できればその自分に軸足を置いていくこと。自己否定に陥る前に、「好きな自分」で生きていくことに罪悪感を感じないようにしたい。
   
「本当の自分」とは存在せず、分人としての人格どうしがリンクし、自分という人格を形成していると言われると、なんとなくそういう風に世界を捉えられる気がした。
中学の時の自分にはできなかったけど、大人になった自分は気に入らない分人が自分の中で大きな比を占めないよう、たまには棚卸したいと思った。