人が内省する能力は、これからも発展するのかもしれない。

去年、「中動態の世界」という本の感想をこのブログで書いた。この記事はその続きで、自分の考えや感覚を認知する能力、ひいてはそれについて考える力、「内省」について、考えてみた。

我々が「行動の原動力」だと考えるもの 「中動態の世界」意志と責任の考古学/國分功一郎 著 感想①

まず意思が生まれて、意思を行動に移しているのか

以下は本から抜粋。

「能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意思の概念を強く想起させるものであった。…(中略)(中動態は)そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意思は問題とならない。

ハンナ・アレント
『ギリシア人は、我々が「行動の原動力」だと考えるものについての、「言葉さえもっていない」のだ。』

「中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 」より

現代、私たちのほとんどは、「お腹がへる」から「食事をする」のであって、「楽しそう」だから「遊ぶ」と考えている。

行動をするときには、当然のように、その行動に駆り立てた感情や感覚があると考えている。

けれども、上に抜粋した「中動態の世界」を読むと、古代の人たちは、行動に駆り立てた感情に対する言葉を持っていなかったように思える。古代の人は、行動するに先立って、人が感情や意図を持っているなどとは考えていなかったのかもしれない。

その考えは個人的な感覚だけど、共感できる。私は昔から、自分の感覚に鈍感で「お腹が減った」「楽しそう」という感覚が分からず、とりあえず周りに合わせて動いていた。周りの子と自分は、何かが違うのだろうとも思っていたけど。

すこし話はそれるが、実際に、人は「動こう」という意思が沸くよりも先に動いているらしい、「手首を動かそう」と思うのは、筋肉が動き始める準備を始めた後だ、という研究もある。

人間はすごく衝動的で、外からの刺激に対してただ反応するだけの、極端に表現すると機械のようにも思える。

 

人が「内省」に関する言葉を使い始めたのは、この3000年以内のこと

人が自分の思考や意思と、行動に目を向けるようになったのは、ここ3000年ほどなのではないかというスピーチが、TEDにあった。

スピーカーの脳科学者Mariano Sigmanは、ギリシャ古典に使われた言葉をデジタル空間内に配置する。意味の近い言葉は、空間の中でも近くに来るように。

そうすると、人々が「内省」に関する言葉(自身、罪、理由、など)を書物に書くようになったのは、たったこの3000年以内のことだ、ということがわかった。

古代の人は、内側に発せられる言葉を「神の啓示」だと思っていて、自分で我が身を省みているのだとは思っていなかったとか。

内省するというとは、人類史でも新しい行為なのかもしれない。人間以外の、例えばチンパンジーとか、サルであったりとか、ブタやウシ、犬でもよいのかもしれないが、どれくらい「自分の意思」を意識するのかは分からない。

自分の5歳の子どもを見ていても、たとえば「悔しい」「嬉しい」など日常的に感じてはいるが「このような場面で悔しさを感じる自分とは」という事を考え始めるのは、もう数年か、10年くらいかかりそうだ

 

「内省」は進化途中の能力なのかもしれない

じっくり考えること、内省すること、自己省察。

米ギャラップ社の「ストレングスファインダー」という、資質の診断ツールをご存知の方もおられるかもしれないが、このツールでも「内省」することは人の資質の一つだと言われている。

内省が得意だということは何がしかのメリットがある。ただただ座って、考えを巡らせるだけで、それまでとは違う答えや考え方を導きだせることもある。

こういう習慣があまり無い人もいる。まず行動して、そこから得た経験を蓄積させていくというスタイルだ。

どちらが良いかの議論は、さまざまなところで耳にする。考えてから動くか、動いてから考えるのか。そして、だいたいの場合、どちらが良いかはケースバイケースで、結論が出ていないようだ。

どちらにせよ、自分の感覚や意思を考えを省察し、場合によっては違う考えに置き換える技術を持っていることは、メリットがあると思う。より理性的に判断し、よい選択を重ねることにつながるからだ。

しかし一方で、そのことが上手くできている人も少ないと思う。

私自身は一時の感情に流されることが多く、いつも客観的に省察できていないと思っている。そして、社会人経験を十数年積んで出会った人の中でも、当に知性的だと思う一握りの人だけが、内省の力を人生の武器にできていたと思う。

うまく内省するのは難しい。

「自分のことを客観的に見ることは難しい」という言葉に表されているとも思うし、考えすぎや、自信過剰や極端な自信のなさといった、自分に関する客観的でない思い込みも、よくある話だ。

これらは、自分の内面を省みるという行動の習慣は持っているけれど、内省のやり方が下手くそであるために起こっている事なのかもしれない。

 

内省に関する言語が生まれたのは、ここ3000年以内ということから勝手に予想すると、人類の自己省察に関する能力はいまだ発展途上なのかもしれない。

今後も人類のこの能力が発展していくのだとすると、自分の内面をより巧く見つめられること、バランスの取れた自己認知の力(それは、他者の認知にもつながるのだけど)が発達していくのかもしれない。

そうであればいいなという期待混じりの予測だけど、自分もそのような人間に近づけるように歳をとりたい。