我々が「行動の原動力」だと考えるもの 「中動態の世界」意志と責任の考古学/國分功一郎 著 感想②

前の記事で、古代の言葉は「能動態」と「受動態」ではなく、「能動態=行動の結果が主語の外に表れるもの」と「中動態=主語の内部で事象が完結すること」が使われていたと理解したことを書いた。そしてその言葉を使っていた人たちは、人の行動の原点には、その行動を起こそうとした人の意思があるという概念がなかったのかもしれない、ということも書いた。
  

 
 

「やらされている」「やる」どちらの要素も含む行為

 
本心からは納得していないけれど、職場の人間関係上、やらざるを得ない仕事は山のようにある。そんな仕事がほとんどだという人もある。では何故、会社をさっさと辞めないかというと、「家族を養わないといけないから」。
   
手が汚れている気がして、手洗いを繰り返すという人がいる。自分の手が傷ついても手洗いを繰り返す。そしてそういう習慣に悩まされている人のほとんどは、過剰な繰り返し行動が無意味であるということに、気が付いているのだそうだ。
   
やりたくないのに、やってしまう。
そこに自分の意思はどれくらいあるのだろうか。
身体が勝手に動いてしまうような状態は、自分の意思だと言い切れるだろうか。
  
甘い物についつい手が伸びる。手が伸びてから「あ、お菓子をつかんでしまったな」と気付く。
  
子どもがあまりに急かすから、作戦が練り切れなくてもオセロの駒を置く。
    
私の行動はいつも「私で決めて実行した」と厳密に言い切れるだろうか。
 

自分の意思で動いているようで、他人の意思で動いているような状態はままあるように思う。私たちの行動は、心から自分自身で決めて行動したと言い切れることもあれば、周囲の環境からやむなく行動していることもある。
     

選択・意思・自由

本書では中盤から、アリストテレスの選択の概念、ハイデガーの意思の批判、そしてスピノザの説く「自由」に対する考察がえる。私がここで解説するのはあまりに誤解を招くので、書かないことにする。
 

『本質は単に外部からの刺激を打ち返すだけでなく、打ち返しながら自らに変化をもたらしている。』

  
外からの刺激に対して、自分の行動を返すこと。その返し方だけでなく、内面での受け取り方、そしてその刺激を受けての自分の変化に人間の本質が現れる。
  
やむない状況、受け身にならざるを得ない状況に、私たちはどのように対応すべきなのか。筆者はスピノザの「思惟能力」をヒントに挙げる。
  

『他人から罵詈雑言を浴びせられれば人は怒りに震える。しかし、スピノザの言う「思惟能力」、つまり考える力を、それに対応できるほど高めていたならば、人は「なぜこの人物は私にこのような酷いことを言っているのだろうか?」「どうすればこのような災難を避けられるだろうか?」と考えることができるだろう。そのように考えている間、人は自らの内の受動の部分を限りなく少なくしているだろう。』

  
  
さて、前の記事から冒頭に書いているが、私は子供の頃から、「こうしたい」「ああしたい」と思うことがほとんど無い子供だった。そういう欲求を持っている周りの子たちには、おそらく人格の「核」みたいなものがあって、そこから色々な欲望が発されて来ているのだろうと、私はいつの間にか思うようになった。私はどういう訳か、その核を持って無くて、私という人格の中心は空っぽなのだろうと。
  
少なくとも、核の「有無」ではないと、本書を読んだ今は思っている。
外から受けた刺激に対して、どんなふうに反応して、反射するのか。私と周囲の子たちとは、その反応の種類やスピードが「周囲とあまりにも違った」のだと思っている。
  
自分の感覚を「まとめ上げ」て、自分は「こうしたい」と繋げることが難しいと感じていることについては、以前の記事で書いた。
  
http://rikejo-s.jp/2017/11/23/%E6%84%9F%E8%A6%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%80%8D%E3%81%8C%E4%B8%8A%E6%89%8B%E3%81%8F%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93/

興味の対象がそもそも違い、また同じものに興味をもったとしても、「まとめ上げ」がうまく行かない状況では、反応するスピードも違う。
   
「ジャングルジムで遊ぶ?」に対して、「うん、しよう!」と走り出すことも「今は、ちょっと。また後で!」とも即座に反応できない。自分の気持ちがまとめ上げられない。そういう自分は、人格を持たない存在に見えていた。
  
「核」が自分に欠落しているのではない。自分にも「外的刺激に対して、自分なりに打ち返すもの」は存在しているのだ。その反応の仕方があまりにもユニークなのだ。
そういう風に思うことは、今まで否定していた自分に居場所を作れたような気がする。自分の感覚がまとまるのを待たずに「〇〇さんならこう考えるだろう」と他人の視点を借りて、後から後悔するようなことも減るだろう。
 
さて、先週から不安への対処について調べていたのに、脇道にそれてしまった。
次の記事からは、不安の話に戻ろう。