我々が「行動の原動力」だと考えるもの 「中動態の世界」意志と責任の考古学/國分功一郎 著 感想①

私は、子供のころから「あれがしたい」「これが欲しい」という思ったことがほとんどなかった。周りのこどもたちには、その時々の欲求を生み出す人格の「核」みたいなものが存在するのに、私には「核」が無いんだと思っていたと、以前の記事で書いた。
ある本を読んで、その感覚に、通ずるものがある気がした。
   

古代の言葉に見られた「中動態」

英語では、動詞には他動詞と自動詞があり、能動態か受動態で表現される。
「そこ、他動詞+受動態を使うんだ」と日本語の感覚と違う使い方に驚くことはあれ、どの組み合わせでも「…する」か「…される」の意味になる。
しかし、古代のインド=ヨーロッパ語では「中動態」という態が見られた。まったく謎に包まれた言葉と言う訳ではなく、ギリシャ語やサンスクリット語など、すでに解明されている古代の言葉にも明確に見られるそうで、数々の言語学者が研究の対象としてきたらしい。
  

  
  
「中動態」については、研究者によって定義は様々だが、筆者はバンヴェ二スト(フランスの言語学者)の定義
 
「能動では、動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」

に着目する。
 
古代の言葉では、動詞は「する」と「される」のどちらかの形で使われるのではなく、「行為が自分の外に出るもの=能動(曲げる、食べる、など)」「行為が自分の中で終わるもの=中動態(希望する、など)」のどちらかで使われていたようだ。
ちなみに、この言葉において受動態は中動態の一部であり「…されるがままでいる」という感じ方がふさわしいとのこと。
   
その人が行動したけっか、食べ物がなくなっているかどうか、物が曲がっているかどうか、そういう客観的な眼で、他人の動作も、自分の動作をも、見ているということ。そのような言葉の使い手は、起こっている現象のみに着目しているように感じられる。
  
 

「能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意思の概念を強く想起させるものであった。…(中略)(中動態は)そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意思は問題とならない。」

  

ハンナ・アレント
『ギリシア人は、我々が「行動の原動力」だと考えるものについての、「言葉さえもっていない」のだ。』 

 

その後の言葉では、受動態が存在感を増し、中動態は使われることが少なくなっていく。
   
「行動の原動力」とは、冒頭で書いた、私が「核」だと周囲の人の中に見ていたものかもしれない。古代の人は、どのように世界を見ていたのだろう。
本の世界にのめり込んでいく。

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