感覚の「まとめ上げ」が上手くできないということ/「発達障害当事者研究」綾屋 紗月,熊谷 晋一郎

自分の感覚の「まとめ上げ」がうまく行っていない、という説明になるほど、と唸った。自分の中の色々な感覚が、多すぎる。だから「お腹がすいた、だから何か食べに行こう」という普通の人ならば、自分の身体と相談して簡単に決められることが、できない。本当にお腹がすいているのかも知れないし、胃の調子がおかしいのかも知れないし、ストレスで口淋しくなっているだけなのかもしれないし…とぐるぐる考えているうちに、ご飯を長時間食べていなかった、というような。
 
小学校に入るかどうかの小さい時から、私には周りの子たちと違って「自分の気持ち」が無いなと気付いていた。どういう訳か、周りの友達は「この遊びがしたい」「このアニメが見たい」「このおもちゃが欲しい」ということがスラスラと、確固とした事のように言えるのが、不思議だった。私には、そんな確実さで、自分の欲求を言い現すことができなかった。もしかしたら「したい」と感じていたのかもしれないけれど、それに自分で気が付くことができなかっただけなのかもしれない。「きれい」「かわいい」もどういう気持ちや感覚の時にそれを言うのだろう、それが私にはわからなかった。鈍感すぎたのかも知れない。
 
「何を考えているのか分からない」「どうして自分の考えを言わないの」と、小学校の高学年から中学校の時に、周りに言われた。隠しているわけじゃなくて、「無い」のでどうにもならないと思っていたけれど「無い」ということが、たぶん皆の言い分からするとあり得ないことなのだろう。だから、ありえない事が起こっている訳で、説明することすら出来ないまま、「変わった人」として存在していた。
 
周囲の子の人格には「核」みたいなものがあって、「やりたい」「欲しい」「好き」といった気持ちや行動は、そこから発せられるのだろう。その「核」から自発的に発せられる気持ちや感覚は、その人にとっての紛れもない事実なのだろうと考えていた。そして私には、どういう訳かその「核」がない。自分は何をやりたいのか、どんなものが好きなのか分からないから、自分のやりたいこと、着るもの、食べるもの全て、自分で決めるのが極めて難しかった。周りの真似と、勧められるがままに取り入れてきた。高校に入ると、真似が上手くいってきたのと、幼馴染と同じ高校に通えたことで周りとの懸け橋ができた。カメレオンのように周りの真似をし、極端に浮かない、いじめられないで過ごすことができたけど、私の人格には相変わらず「核」がなくてぽっかりと空洞だった。そのことを、周りに見破られて「自分が無い」と軽蔑されないかどうか、いつもヒヤヒヤして過ごしていた。