マインドワンダリングについて

「注意散漫? 創造的? さまよう思考が果たす役割」CNN.co.jp
https://www.cnn.co.jp/fringe/35056928-3.html

 
私は外見はのんびりした人間に見えるようだけれど、頭の中は、とにかく忙しい人間です。昨日あった出来事を脳内再生してそれで笑ったり怒ったり、誰それがこんな嫌みを言ってきたらどう切り返そうとか、誰々に怒られたらどうしようとか。思い出し笑いもかなり多いほう。
  
とはいえ多かれ少なかれ、どんな人も頭のなかであれこれ思い出したり、まだ起こってもないことを予想したりしているようです。
     

”米ニューヨーク大学の非常勤准教授で心理学が専門のスコット・バリー・カウフマン氏は、「日常的な認知の50%は、自然発生的な認知、つまり白昼夢やマインドワンダリングによって占められている」という”

  
  
けれど、私はおそらく、空想の分量も時間も人より随分多いし、またその空想の世界に入り込んで、現実がおろそかになっているらしい、と何年か前から思うようになっています。私は朝、起きたその瞬間から、昨日の出来事や、今日は何が起こるかと、かなり具体的に脳内再生しています。考えすぎて電車を降り損ねたことも、夜中に目を覚ました時に、「ああ、昨日会社で怒られたことを、今浅い眠りの中で脳内再生していたな」と気が付く時もありました。
   
こんなこと考えても、自分にとって何の益にもならないし、ネガティブな方向に考えすぎることも多い。だから、止めようと思うときもあるのだけど、劣化したパッキンの隙間からじわじわと水が漏れてくるように、「やめよう」という意識が途切れた瞬間を狙って、次から次へと考えや妄想が沸いてくるから、私はもう、自分のマインドワンダリング癖にはお手上げ状態です。
 
普通の人はあまりこう延々と考えを巡らせたり、始終空想や妄想にふけっていない、ということに気が付いたのは何年か前。だとすると、私は何のために、時にはネガティブ思考で自分を傷つけてまでも、考えているのだろうと疑問に思います。
   
賽の河原で石積みをしているような、はたまた、どこかの刑罰で延々と地面にシャベルで穴を掘っては埋める、というものがあった気がします。そういう無力・無益な行為を、自分は延々と繰り返しているような気になってきました。
  
・息をすることは、無益だからやめようとは思わない。たとえ生命の維持のために、酸素を吸収して二酸化炭素を排出する行為だと知らなかったとしても。
 
マインドワンダリングも、私にとっては呼吸みたいなものとして、やめようと思って止められるものではないと、とらえるべきなのかもしれない。脳内の化学物質の分泌状況は人によってばらつきがあり、それが個性や考え方を生んでいるという話も聞きます。私の脳内の化学物質、マインドワンダリングを止めるのは難しい分泌状況なのかもしれません。そもそも、マインドワンダリングは全く無益ではないのかもしれない。私は、子どもの頃から友達が多いタイプではなかった。マインドワンダリングは、淋しい気持ちを慰めるために、身に着けてきた技なのかも知れない。
 
 
ワンダーマインドを捕まえてみたい
流れては消えていく空想や脳内のおしゃべりに、少しでも形与えてみることにした。思ったことをスマホに入力したり、今日こうやって記事を書いているように。「思考は書き出してみるべき」とは、本当にたくさんの人が言うことだ。書くことによって少しの客観性が出てくるのだろう。客観性、それが、形。形になれば、誰かに渡すことも、見てもらうこともできるのかもしれない。

自分のマインドワンダー癖をもどかしく思っていたのは、それが自分の一部であるにも関わらず、そして頭の中では人とどうやってつながるかを一生けん命考えているにも関わらず、それを実生活につなげることができないからなのかもしれない。

 賽の河原で石積みをするのではなくて、本当はみんなで石を積んで遊びたい。石を積んで建物が出来たら、誰かに来てほしいし、誰かの役にたったらもっと嬉しい。私は内向的で自分の思いを人に面と向かって話すのは、自分の心と口に鍵がかかってしまったように難しい。けれど終始、彷徨っている雑多な自分の思いを整理して、書いて形にすることで、もし、人とつながれるようになったら嬉しく思う。